四谷の名の由来
上の写真は、アニメ映画「君の名は」の舞台となり、ファンのあいだで聖地と言われる須賀神社です。
須賀神社は江戸初期より四谷の地に鎮座する、四谷十八ヵ町の鎮守様で、六月に行われる御祭礼は、江戸の五大祭りの一つ、四谷の「天王祭り」として有名でした。
社名の須賀とは、須佐之男命が出雲の国の簸の川上に、八俣の大蛇を討ち平らげ拾い 「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」と宣り給いて、宮居を占め給いし故事に基づき 名付けられた名称だということです。
場所は、須賀町、四ツ谷駅から新宿通り(甲州街道)を新宿方面に進み間も無く四谷三丁目の手前の左側、鮫河橋谷と呼ばれる谷の崖の上にあります。この鮫河橋谷は四つの支谷を集めながら曲りくねり、迎賓館と東宮御所の間を抜け、赤坂見附の外堀まで続いて、縄文の頃は海の入江の一つだったということです。
さて、鮫河橋谷の四つの支谷が、「四谷」その名の由来なのでしょうか?
まず「四谷地区」とは、四谷見附が設けられた四ツ谷駅付近から四谷大木戸が設けられた四谷四丁目まで、新宿通りを真ん中に南北に広がった地域です。おおよそですが、北は靖国通り、西は外苑西通り、南と東はJRに囲まれた地域です。
そして「よつや」という言葉が文献上に初めて登場するのが1590年に内藤清成が記述した『天正日記』で、この付近を調査した時の道案内をした関野五郎兵衛が、別名「よつや五郎兵衛」と呼ばれていたそうです。この「よつや」が何を意味するのかは不明ですが、江戸幕府が開府まもなく甲州街道が整備され、1616年に四谷大木戸が設置されました。これが地名としての「四谷」の最初と言われています。その後1636年、外堀の設置にあわせて四谷見附が設けられ、寺社群が四谷地区に集団移転し、それに伴い「四谷地区」は大きく発展していったのです。
調べたところ「四谷」という地名の由来には二つの説があり、一つは、四カ所の谷説で、千日谷・茗荷谷・千駄ヶ谷・大上谷という四つの谷があったことに由来する説で、あまりに広範囲なので意味がわかりません。もう一つは、梅屋、木屋、茶屋、布屋という四軒の茶屋があり「四屋」が「四谷」にという説ですが、茶屋ができる江戸時代以前から「よつや」と呼ばれていた説明がつきません。どちらも定説ではないようです。
どうもスッキリしないし「四谷」はやっぱり四つの谷だろうと思うので、四つの谷を探してみる事にしました。東京スリバチ地形散歩(皆川典久 洋泉社)、江戸・東京の地理と地名(鈴木理生 日本実業出版社)などの本を買い、インターネット、Google map、などなどを調べ、休日には四谷の谷を自転車で登ったり降りたりしていると、自分なりの面白い仮説が浮かんでくるではありませんか・・・・
さてさて「四谷」という地名の由来となる、四つの谷はいったい何処なのか?
地形図を調べてみると、四谷地区には鮫河橋谷の他にも沢山の「谷」があることがわかりました。まず、四谷地区の北にある靖国通りは、曙橋が架かることでもわかるように、紅葉川が流れていた谷です。いくつもの支流を合わせて、靖国通り沿いから外堀りに出て市谷から北東に向かい、飯田橋で神田川に合流していたようです。
そして、四谷地区の甲州街道北側にも、この紅葉川に向けていくつかの支流があり、谷を形成していました。その一つは、荒木町の金丸稲荷神社の裏の高低差10mある窪地です。江戸時代の荒木町は街全体が松平摂津守の屋敷の敷地で、その庭園の中心には、高さ4mほどの滝からの流れを堰き止めた、長さ130m、幅20~40mもある大きな池があり「策(むち)の池」と呼ばれていたそうです。明治期になり大名屋敷が上納された後も水辺の風景に惹かれて茶屋や芝居小屋が集まり、賑やかな花街を形成していったようです。今は池も1/10ほどになりましたが「津の守(つのかみ)弁財天」として残っており、石畳が路地に残る小粋な街として賑わっています。
もう一つは、四谷北寺町と呼ばれていた付近で、現在の愛住町にあります。左側に東京おもちゃ博物館(旧新宿区立四谷第四小学校)、愛住公園の斜面、右側には安禅寺、正應寺や法雲寺、浄運寺とお寺が並ぶの斜面に囲まれた細い谷底です。玉川上水開鑿当時、この付近に石工職人のために横丁に風呂釜を並べ、無料で入浴させていたことから「湯屋横町」と呼ばれています。斜面上にあるお寺の本堂が並ぶ路地を「浄運寺横町」と言い、靖国通りに抜ける急坂は暗闇坂(暗坂)(くらやみざか)と呼ばれています。
これで主だった谷は三つ、さて、もう一つの谷はどこなのか?これ以上は何を調べても解りませんでしたが、四谷大木戸のあった四谷四丁目から富久町にかけての斜面も、もう一つの谷と見る事ができるのではないでしょうか?
【仮説1】「大木戸から靖国通りへの四つめの谷」
さらに、・1636年外濠ができる前から四谷の名があった。・四谷見附が外濠全体の中で一番高い位置(海抜)にある。・外豪の普請は台地を削り取ったのではなく、台地内の谷を利用していたのでは?以上のことから、四谷見附から靖国通りに向けて谷があり、その谷を利用して市谷濠が作られたのではないでしょうか?
【仮説2】「堀に生まれ変わった四つめの谷」
近年、四谷駅前は再開発が進められ、財務省公務員宿舎跡地や四谷第三小跡地に、「CO・MO・RE YOTSUYA(コモレ四谷)」が2020年にオープン予定。この工事中に町屋を埋め立てた遺跡が発掘されました。外濠工事では大量の土砂が出たため、その土で近くの谷を埋め、多くの土地造成を行なった様です。コモレ四谷から靖国通りに向かっての坂町坂辺りにも埋め立てられたもう一つの谷が隠れているかもしれません。
【仮説3】「埋め立てられた坂町坂の四つめの谷」
信じるか信じないかはあなた次第です・・・・。
文・写真 石川雅朗