四谷牛込地区の歴史 (1)

牛込の名の由来

写真は「牛込」の名の由来に大きく関わる赤城神社です。僕も氏子地域に住んでいます。
2020年東京オリンピックの新国立競技場の建築を手掛けている建築家 隈研吾氏が設計したモダンな神社です。
赤城神社の歴史は、鎌倉時代の終わりころ、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族、大胡彦太郎重治が、この辺りに移住した時、御分霊をお祀りしたのが始まりで、今も早稲田鶴巻町に元赤城神社の所在地として小さな屋城があります。 室町時代の終わり、戦国時代に突入する少し前、寛正元年(1460年)に太田道潅が、牛込台、今の神楽坂下、牛込見付附近に移しました。さらに、弘治元年(1555年)上杉謙信と武田信玄が川中島で戦っっている頃に、牛込氏と名乗った大胡宮内少輔が現在の場所に移したと言われています。

早稲田鶴巻町にある元赤城神社

 生類憐みの令で有名な5代将軍綱吉の頃、天和3年(1683年)、徳川幕府は江戸大社の列に「赤城明神社」を加え牛込の総鎮守とし「日枝神社」「神田明神」と共に「江戸の三社」と称されました。
盛観を極めた山車行列も街の発展に伴い縮小され、明治3年の大祭が最後となったそうです。 江戸末期に火事で全焼、その後の復興では「新撰東京名所図会」にも載る如く実に壮麗なる御社殿だったといわれていますが、残念ながら昭和20年の大空襲により、全て焼失してしまいました。 終戦後、最終的に再建されたのは、昭和34年5月でした。僕が生まれる半年ほど前になります。 さらに現在の赤城神社は、赤城神社再生プロジェクトとして平成22年9月、戦後復興出来ずにいた「蛍雪さま」「おいなりさん」「八耳さま」「葵さま」まで全てが再興されました。


隣接してマンションが建っていますが、65年後には、また鎮守の森に戻すという壮大なプロジェクトです。

赤城神社の鳥居は昭和から変わらず。

さて、「牛込」の名の由来ですが大宝元年(701年)、大宝律令により武蔵国に「神崎牛牧」という牧場が設けられ、「乳牛院」という飼育舎がこの地に建てられていたそうなので、豪族 大胡彦太郎重治が移り住んだ(1300年)頃には牛がいっぱいいたことは間違いないようですが、すでに「牛込」と言う地名があったのか?

文献に残る牛込の地名の初見は歴応3年(1340年)の文書で、室町幕府が「武蔵国荏原郡牛込郷闕所」を江戸氏に預け置くとする内容です。それ以前はいろいろ調べてもわかりませんでした。

僕は、「牛込」と言う名字が群馬県が一番多いという事や、同じような東京の地名「馬込」も歴史が浅いと言う事からも、豪族 大胡が移り住んでから「牛込」が地名となり、後に牛込氏と名乗り牛込城を築いた事で、地名「牛込」がさらに広がったと想像します。

信じるか信じないかはあなた次第ですが・・・・。   

「江戸名所図会. 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」「赤城明神社」

                                



文・写真 石川雅朗